使い捨ての技術

紙ごみやプラごみ等のリサイクルが云々されているが、ちょっと向きのそれた話として、使い捨て容器について話してみたい。これらは便利に便利にと追求をした結果としてあると思う。人は邪魔くさがるものである。怠け者である。それを補う、助ける、手段として使い捨ての品々があるのではないだろうか?

使い捨てはひとつの文化だと思う。非常に便利な文化である。もったいないという言葉にマータイさんは着目された。便利ともったいないは相反する事かも知れない。これらを比較することでどこかにバランス点が見出せると私は思う。

清涼飲料水のペットボトルはなぜあのように丈夫なのか? ワンウェイ容器としては丈夫過ぎではないだろうか? 炭酸飲料用にはそれなりの強度が必要なことは理解できるが、スポーツ飲料やジュースやお茶用等のペットボトルでもテーブルの上から落としても割れず中身がこぼれ出ることはない。何度開け閉めしても決して漏れ出すことのないキャップ、注ぎ口はほんとに必要なのだろうか? ワンウェイ容器はメーカーから消費者まで物をただ一度だけ届けるための物である。なのに異常とも思える付加価値が付けられて久しい。

私の住む隣町の山には湧水の汲み場がある。奇麗な水用プラスチックタンクを持ってくる人がいる。私はペットボトルをたくさん持っていく。ペットボトルだと、元々ごみの再利用だからだめになったり汚れれば気兼ねなく捨てられる。でも現実は、一年使っても壊れない、漏れることもない。こんな丈夫な付加価値をつけるためにかかるコストはどれくらいなのであろうか?

ワンウェイ容器には使い捨て用としてのあるべき姿があると思う。もともとペット樹脂は焼却処理を意識して開発されたものと聞く、使い捨て容器にふさわしくない多くの材料と高級な技術を使い、エネルギーコストや製造コストを上げながら、一方で、使い捨てはダメ!として、これらの2つのコストや更にリサイクルするためのコストも掛けてさせようとするのはおかしいことと我々消費者はそろそろ気づくべきと思う。

ペットボトルのキャップはヤクルトやヨーグルトの蓋のように一度開ければ閉められない物がワンウェイとしてふさわしい技術ではないか? キャップが欲しい人には別売りにすればよい。キャップを集める運動なんておきることがおかしいのである。一度開けると二度と蓋ができないのであれば防犯の意味もあるというものだ。

極論すればペットボトルは使用後の容器としての機能は無くなってよいのである。もっとひ弱いものでよい。もっと弱々しく袋に入っているだけでよい。イメージとしてはビニール袋に水を入れたようなものやなべ物の汁の袋詰め、糸こんにゃくや豆腐のパックのようなものである。例えてビニール袋に入った水はそのまま水筒に入れるものとする。しっかりした瓶としての機能(水筒)は消費者の方で用意すれば余計な材料を使わなくてもよいではないか。

このように当り前と思うようなことが、そうでなくなってしまったのは、ちょっとしたミスを許せなくなった人々が増えてしまったことと、それを大きく取り上げるマスコミの悪影響が大きいと思う。輸送中や保管しているときに、何らかの原因で漏れたりしてしまうことがあったとしよう。すると、全商品がダメになってしまわざるを得ない厳しい現実があるので、メーカー側は、過剰!と批判されようと、石橋を何度も叩いて渡るべく、強く、きれいにしなければならない悪循環に陥らざるを得ないのだろう。

 

人々がごみになったペットボトルを視て「回収してリサイクルしなければ」、と思うのはもったいないという気が起きるからである。過剰な値打ちが残っていると感じるからである。なにかしら材料が使われ過ぎていることを感じるからである。そんな気にならないほど使い捨てる部分が少なくなるようなものであれば使い捨て文化は本物の文化だろう。

 

ペットボトルは、@リターナブル容器とA使い捨て容器に用途を分けるのがよいと思う。

@   はしっかりしたボトルが必要な用途に使用、リターナブル用とする。耐圧容器としての機能が必要な炭酸飲料はこの部類であろう。ビール瓶のように何度も繰り返し使用する。ねじのついたキャップが有っても過剰とは言わない。

A   炭酸飲料以外の清涼飲料水はすべてこれにあてはめて、ワンウェイとする。
ビール瓶は10~30 推定平均24回繰り返し使われた後は廃棄している(キリン)という。この数字を信じてリターナブルペットボトルの場合でも同じ24回の寿命と仮定すると、使い捨てに使用する材料樹脂量は@のリターナブル容器に使用される量の1/24に、その容器の回収再使用にかかるエネルギー分を加味した量になる。

 

このようにリターナブル容器として使用する場合を基準として使い捨て(ワンウェイ)容器の樹脂材料使用量を基準に考えれば使い捨てても何らもったいなくない。使い捨て文化はいちどで廃棄する量がそれなりに少なければ許されるべき便利な文化だと思う。

このような容器はかなり弱々しくなるので品物に関する責任範囲を考え直すことも必要と考える。つまり、メーカーは消費者に届くまでの事だけを基本とし、携帯することや容器の耐久的な性能は消費者で責任 (水筒) を持つこととする。これで使い捨てる部分は少なくなると考える。

食品スーパーにはペットボトルに入ったトマトジュースなどが整然と並べられている。トマトジュースを手に取ると固く丈夫である。ボトルを落としても割れない分ガラス瓶より丈夫で扱いやすい。これ等を家庭の台所で使うとしたら、これまた丈夫過ぎである。家庭で使いまわしのできるそれなりの補助容器を準備すれば丈夫過ぎる分のボトル強度は弱々しいもので済む。私の愚脳ではビニール袋に入ったトマトジュースがビールジョッキに入っていて袋の片隅がハサミで切られたくちをクリップで挟んである姿しかイメージできないのであるがもっとスマートな形をどなたかイメージしていただけないでしょうか。

(記 吉田 義晴)