311を振り返る

 

京都大学環境科学センター助教 浅利 美鈴

 

311の被災地は、応急復旧の期間を過ぎ、いよいよ本格的な復旧・復興に入ろうとしている。原発事故という大きな足かせがありながらも、災害廃棄物という視点からは、一定(福島を除いて)、大きな流れができつつある。

さて、私自身は、地震発生の2週間後にあたる325日から、京都市環境政策局の方々と一緒に仙台入りし、仙台市役所に駐在しながら、岩手や宮城県内の現状把握や災害廃棄物分別・処理戦略マニュアル(廃棄物資源循環学会より)の作成・発信にあたってきた。

当時、沿岸部には、今までに見たことのないような景色が広がっていた。土台を残して消えてしまった集落、津波が海底から巻きあげてきた泥に覆われた田んぼ、ぐしゃぐしゃにつぶれた自動車、なぎ倒された電柱、ガレキになった家屋・・・これが自然の力というものか。その威力を思い知らされた。「環境や自然に優しい」などをキャッチフレーズにしていたのは、人間の完全なおごりだと痛感。一方で、絶望の中からでも這い上がる人間の力、しなやかな助け合いの力も目の当たりにし、人間の力も改めて感じた。

思えば、3月は怒涛のように出来事が押し寄せた一ヶ月であった。

32日、電力会社の方々と、ゆっくりお話しする機会があった。印象的であったのは、日本の経済を憂う議論。その熱く真剣な姿に、非常に刺激を受けた。

36日、福井県鯖江市にて、私が実行委員長を務める「3R・低炭素社会検定」の合格者ミーティングを行った。鯖江には、学生の頃から通っている。きかっけは、2004年の豪雨による水害。直接的な復旧には関われなかったが、ひと段落した秋に出かけて、しばらく思いきり遊ぶことが許されなかった子供たちのお祭りを、芸術家仲間たちと盛り上げた。36日の夜も、冷え込んだが、古民家で夜遅くまで語り合った。

310日、京阪奈にある国際高等研究所の尾池和夫所長(京都大学前総長)を、彫刻家の武藤順久氏らと訪れた。目的の一つは、武藤氏の作品を中心に京都で「環境と平和」をテーマに、人が集う企画を行うための相談だった。彼の作品がニューヨークのグランドゼロに置かれることを記念するものである。イタリアでの活動が長いが、仙台出身。仙台空港駅に飛翔という彫刻も飾られている(奇跡的に流れなかったという)。彼から「霜柱」というお菓子を頂いた。湿気にも温度変化にも振動にも弱いという、とても繊細なお菓子に、想像を巡らしながら、出張カバンの着替えの間にしまった。その日のうちに翌朝に備えて川崎に移動した。

11日は、川崎駅から東京電力電気の史料館に向かい、3R・低炭素社会検定の合格者ミーティングを開始した。午前中、史料館の方に館内を案内して頂き、電力供給の歴史を、迫力ある展示物を中心に教えてもらった。現在の需用に対して、安定的に応えるためには、原子力が不可欠で、更に頼らなければならないこと、水力発電や太陽光発電などに、それぞれ得失があるが、これも、もう少し普及させたいことなどの説明が頭に残った。午後も引き続き、合格者ミーティングとして、尾池先生を講師にお迎えした。地球のなりたち、季節との関係などの流れの中で、ご専門である地震の話に入った。世界のプレート運動から最近の地震について話が進み、東北(宮城県沖)の地震が直前に迫っている説明に納得し、ニュージーランドの地震について伺っているときだった。ゆらゆらと揺れる。立って話されていた尾池先生は、立ちくらみをされたかのような仕草をとられた。やがて、船に乗っているように揺れが更に大きくなり、電気が消えた。直前にインプットされた話通りの出来事で、東北が震源の地震であることがピンときた。先生とご一緒であることもあり、私たちは、みな落ち着いていたが、館のスタッフの方々が少し興奮した様子で避難を呼びかけにきた。移動中、先生は津波と誘発地震を気にしておられた。その後、中庭に集められ、寒空の下、約1時間を過ごした。余震がおさまり、建物確認の後、部屋に戻った我々は、先生の話の続きを伺った。その後、18時前、参加者の多くは施設のバスで川崎駅に向かった。一部信号が止まっていたが、車は比較的流れており、スムーズに駅前に着いた。駅前は、タクシーを待つ人の長蛇の列であったが、一部諦めて座り込んでいる人もいた。尾池先生と、ホテルを探しあるいたが、どこも満室。先生は自力で帰ると駅に向かわれた。

別れた数名は、中華料理店に入り、電車の再開を待つも、結局、川崎駅は動かないまま。食事中に、6名程度の集団が、途中休憩と、隣の席へ。聞けば、羽田近くの会社から3時間程度歩いてここにたどり着き、自宅まで半道残しての休憩という。同じような境遇は不思議な連帯感を生み、なぜか盃を酌み交わす。随分遅い時間になったため、その中の女性1人は、私のホテルで一緒に寝ることとし、男性陣と別れる。翌朝、尾池先生を含め、全員無事帰宅したとの連絡。

その深夜、メールをチェックすると、世界中の知人・友人から安否を気遣うメールが届いていた。また、京都市からは、いち早く現地への支援隊が出発した旨の連絡が入り、誇らしく思った。特に被災者にとって、遠方からの応援というのは、大きな力になることが、現地にいって実感できた。

それから、あっという間に1年。我々は、311を受けて本当に変わったのだろうか?むしろパニックを経て、想定外という事実を受け入れて、本格的に変わっていくのは、これからという気がしている。